書評

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死と生成の静けさ

本多寿詩集『風の巣』

私たちは、不安と緊張の渦巻く社会、悲鳴を上げる地球に生きている。容易に回答の見出せない不可解さの前に立ちすくんでいる。身近な者の死、身近な自然の変異、分断される関係にさえ、単なる通過点のようにやり過ごしている。死と生成のリアリティが消え失せて久しい。古代人の霊魂観や死生観に興味を覚えるのも、想像世界に慰撫を見出し、そこにグリーフ・ケアの可能性を見出すからだろう。この詩集はとても静かである。樹木や草花、空や雲の動き、生起し、変転する鳥獣虫魚などが多彩なタッチで描かれる。自然や日常の風景に問いかけ、思索を巡らし、内包する熱量を抑えながら、その響きは澄んでいる。全体を流れるトーンは静かだが、私たちの記憶のなかに眠っている何かをゆり動かす力を持つ。

ヤシの木の間から見える朝焼け

流れゆくもの

日笠芙美子詩集『海と巻貝』

私たちはこの世に生まれ出たということの不思議さに、一瞬、戸惑うことがある。自らの出自や生い立ち、境遇、置かれている環境に、「なぜ、そうなったのだろう」と偶然の重なりと運命的な出来事に、ある種言い難い想いにとらわれることがある。生きていくなかで壁にぶつかり、苦しさややるせなさに見舞われる時、ふと生きていることへの疑問を抱くこともある。あるいはまた、宇宙の成り立ちや大自然の営みに触れ、今、人として生きて在ることの不思議さに「なぜ、ここにいるのだろう」と自問することがある。この詩集は、そんな想いを明解なことばとイメージで描いている。いわば意識の底を流れる人間存在の不確かさを、具体的な事物や事象に置き換えながら作品化している。

宮崎県日南市梅ヶ浜の夜景

井戸端会議に生きる

柳内やすこ詩集『地上の生活』

俯瞰することで、私たちは地球上の出来事や日常の生活を客観的に捉える機会を多く持ちつつある。距離を置けば置くほど、平凡であることが尊ばれ、取るに足らない出来事や何でもない会話が、価値あるもののように感じられてくる。昼と夜、喧噪と静寂、人の生と死、喜びと悲しみなど、繰り返される日常生活のなかで、健気に生きている人々の姿が思い浮かばれてくる。すると何故か、毎日の平凡な生活が愛おしく感じられ、その平凡さがとても価値あることのように思えてくる。これは一体、何なのだろうか。俯瞰する眼とは、ヒトを創った存在、いわば神の眼に近いといえないだろうか。俯瞰することで、地上の生活が愛おしく感じられてくるのは、恐らくちっぽけな存在である人間の苦しみや哀しみを見つめているからであり、ひとときであれ、生きていることへの親しみや肯定観に目覚めるからであろう。

囲炉裏のある居間で自在鉤に吊るされ熱された鉄瓶

問いの連続性

前田ちよ子詩集『昆虫家族』

神が一匹の黒い犬としてこの世に現れる。そして人間の生活を犬の視点から眺めている。見られていることを人間も知っているが、それがいつもどうしようもない辛さや寂しさ、怒りなどにふるえている時であるという。やさしく愛され、慰めて欲しいと願っている時に、神はただ見るだけで、黙って通り過ごそうとする。その神(黒い犬)に対して石つぶてが飛ぶ。そのとき、神は何を思ったのか、という問いを読者に投げかけている。新鮮なのは神に対する疑問という逆転の発想である。この世からなぜ悲しい出来事がなくならないのかという問いを、神に対する懐疑という形で表現している。その問いを神の立場に立って考えようとしている。全能であるはずの神がなぜ黙って何もしないのか。神は何を考えているのか、という問いを自らの課題としてとらえようとしている。

棚田と白い小屋

神話的思考の源流

金田久璋詩集『鬼神村流伝』

ロシア・フォルマリズムのひとりロマン・ヤコブソンが、民間伝承、特に俚諺を熱心に調査研究し、そこに意味を持たない言語機能を発見したことは、後のソシュール言語学や構造主義の源流にもなった。また、ドイツロマン主義の流れを組むグリム兄弟(ヤーコプとヴィルヘルム)が民俗学や言語学に関心を寄せ、グリム童話の初版本に民話を提供した農婦の写真を載せたことはつとに知られている。想像力を広げれば、詩「願を解く」は一寒村の物語ではなく、世界規模でとらえることもできる。飢餓、難民、無差別テロ、多文化の消滅、自然異変、モラルハザードなど、世界のカタストロフィが臨界点に達しつつある。その危機感を身近な寒村の情景として象徴的に描き出している。「記憶の深い底にある集合的無意識とコスモロジーの所産」(金田)が、内部で発酵し、地球規模で危機的状況を感受している。

稲穂が垂れる田んぼに浮かぶ鳥居

美しい「解」を求めて

大城さよみ詩集『死の蔭にて』

巻頭にあげられた「靴」では、津波の跡に残された靴を通して、人が一瞬にして波にさらわれるという悲劇を問うている。弔う時間さえ与えられなかった自然災害の悲報に対して、人はどのように向き合えるのか、どんな言葉で現実を超えられるのかという問題意識が伝わってくる。靴を履いていた子どもや母親、老婆の名を列挙し、履き主を失った靴に呼びかける形で死の無残さを訴える。しかし喪失の悲しさは、まさに哀しさとして解決の道は見い出せないのである。現実の世界に対して原罪を意識するほどに悲観的にならざるを得ない。だからこそ、言葉による「美しい解」を求めようとする。その飢えが詩作のモチーフとなっている。言葉の限界性も、アンビバレントな心情も意識しながら、大城は詩心を鍛えようとしている。

宮崎県北部の山々で見れる夕景

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